モネ展へ行った時のはなし

2024年3月某日、大阪は中之島美術館へ今話題の「モネ 連作の情景」展へ行ってた。

この展示では、まだ印象派ではなかった初期頃の、線のハッキリとした作品から、まさに「印象派」と言われる作品、そしてとモネ言えばな「睡蓮」まで、モネの生涯にわたる作品群を楽しめる展示でとても楽しかった。

個人的には、睡蓮以前の印象派としての作品たちに感動した。

水面に映る建物や山々の描写と光のキラキラとした日差しの美しさや、色づかい、ヨーロッパ各地の風景を描いた作品たちを見ながら、風はこういふうに吹いてるのかな、こんな匂いかな、このあと綺麗に夕焼けにやりそうな空だな、この日は日差しが強そうだ、もしかしてここは地中海?いや違った、この日はピクニック日和そうだな、なんて思いを馳せながら楽しんだ。

またモネは同じ場所、同じ構図で、時間や季節違いで描かれた作品がいくつかあった。

これらの作品は風景をそのまま切り取るのではなく、それらは連作として考えられており、作品たちを並べた際に調和が取れ美しく感じられるよう、加筆修正をされたものがあった。

たしかにそれぞれの作品を単体で見た時よりも、連作として見ることで、季節の移ろいや、作品から感じられ雰囲気の違い、タッチの違いなども相まって深く感激した。

そんなモネ展であるが、最後のエリアには一番の見どころである、睡蓮の作品群が展示されていた。

この睡蓮のエリアのみ唯一、この展示会で写真撮影が許可されたエリアなのだが、ここで何ともいえない気持ちになった。

その理由は、多くの人が写真撮影に必死になり、じっくり作品を見ようともしていないことだった。

我先にと正面から綺麗な写真を撮ろうとする人、自分の指でピースを作り作品と重ねて撮影しようとする人、作品をしっかり味わっている人を押しのけて撮影しようとする人、カメラの前を横切られてイライラしている人、そんな人達がチラホラというより、かなり見受けられた。

僕はそんな人たちをバカにしたり、けしからん!と怒りたい訳じゃない。

ただ言いたいのは、写真を撮ってはい終わり、ではなく、そんなことよりもっと目の前の本物を味わいなよ、もったいないなぁ、ということ。

作品の楽しみ方は人それぞれだし、芸術作品とはこういう風に楽しむものだ!と偉そうに語れるほど芸術に精通してるわけでもない。

自分なんて、この作品はなんか良いなぁ、これはなんか好きじゃない、というレベルだし。

そうだとしても、今の自分の等身大の感性をもって、目の前の作品を味わうこと、それこそが作品を見に行くこと、展示会に行くことの意義なんじゃないとかと思う。

というより、ここにしか意味は無いし、だけれどこれが唯一にして最も尊いものなんじゃないかと思う。

(なんか当たり前のことを言ってる気がする。。)

何を感じるかは人それぞれだし、それらに良いも悪いも、優劣もない。

ただ、写真に収めることに必死で、自分の感性をもって作品を味わおうとしない人たちを見て、もったいないなぁと思ったということ。

そして、自分には作品を自分なりにでも味わおうとする感性があって良かったな、幸せ者だなといこと、そんなことを感じた。

ちなみに、かくいう僕もこの展示で1枚写真を撮った。

それがこれ。

皮肉を込めて作品名は「モネの撮影に必死な人たち」と名付けたい。

同行していた友人にこの写真を撮っていたところを見られ、君って純粋そうなのに意外とひねくれたところがあるんだね、とふふっと笑われた。

色んなことを感じることが出来た良い一日だった。

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